13代当主。12代武時の長男にあたります。
建武の新政の論功行賞において父が後醍醐天皇に尽くした忠義を評価され、肥後守に任命されました。
その後武重は天皇の側近として引き続き京都に残り、叛旗をひるがえした足利尊氏ら武家方と戦います。新田義貞とともに加わった「箱根・竹ノ下の戦い」では、自軍の3倍の敵を打ち破る画期的な戦法を発案しました。日本初の集団槍戦法「槍ぶすま」です。1000人の兵で3000人の敵兵を倒したと言われるこの戦法は、後に「菊池千本槍」として語り継がれています。
しかし、そのような局地的な武功はあっても、全体の戦況は武家方に圧倒的有利に展開し、後醍醐天皇は尊氏の示した条件を飲み、講和に応じます。この時天皇に付き従って京都に軟禁された武重でしたが、警護の隙を付いて抜け出し、一人菊池へと帰郷を果たすのでした。
帰国後の武重には、動乱の世を生き残るため、一族の結束を固めるという大仕事が待っていました。そこで彼が選んだのは、一族の決め事「家憲」の制定という手段でした。「寄合衆内談の事」と題されたこの家憲は、天下の動静に関わるような大事については最終的に武重が決定権を持つが、通常時の内政については庶家の意見を尊重するという内容で、議会制民主主義に通じるこの精神は、後に五箇条のご誓文の参考にされた、とも言われています。
また、武重は禅宗を深く信仰し、鳳儀山聖護寺を建てるための土地を寄進したことでも知られています。武重が菊池に招いた大智禅師は、二度も中国へ留学した経験を持つ高僧で、生涯を一心に禅道に捧げた人物でした。武重もまた出家して寂山という法名を名乗り、大智禅師の教えを請いました。「寄合衆内談の事」にも「正法の護持」(正しい教えを護ること)という言葉がありますが、大智に学ぶ禅宗を通じて、「正道にそむくような行いをしない」という信条が、武重をはじめとする一族の中で、より強固なものに成長したようです。