15代当主。13代武重の腹違いの弟に当たります。
博多合戦にもわずか14歳で同行していましたが、父武時と別れた後博多の聖福寺にかくまわれて難を逃れました。
肥後に帰ってからは豊田十郎と名乗り、益城で一族の庶流として活動していましたが、合志幸隆に奪われた菊池の本城を奪い返し、その後当主の座に着きました。この時、阿蘇家庶流の恵良惟澄と協力していますが、その後もこの2人は深い協力体制を築いて共に戦っています。
武光が家督を継承してまもなく、後醍醐天皇の皇子懐良親王を征西将軍として迎え、菊池は九州南朝方の中心地「征西府」となります。武光は懐良親王の下で侍大将として九州各地を転戦し、百戦百勝と言われる戦績を残しました。
日本三大合戦の1つに数えられる、1359(正平14)年の筑後川の戦い(大保原の合戦)では、6万騎と伝えられる北朝軍に4万騎で挑んだと言われており、多くの犠牲を払いながらも大勝利を収めました。
筑後川の戦いで勝利を収めた武光はさらに兵を進め、当時の九州の中心地である大宰府を占拠しました。翌年九州の北朝勢をすべて降参させると、征西府を大宰府に移し、九州南朝方の、そして菊池一族の最盛期を築き上げたのです。
九州を平定した征西府は、南朝朝廷の要請に応じ、海路で上洛を計画します。ところが、北朝方の大軍勢の前に大敗。この失敗を機に勢力は衰退しはじめ、九州探題今川了俊の前に大宰府からも撤退を余儀なくされます。これが、全国で唯一、南朝方を有利に導いた英雄の最期となりました。
武光の死亡の時期や原因は、はっきりとはわかっていませんが、この大宰府を撤退する時に受けた傷がもとで亡くなったとも、それ以前から患っていた病気が原因とも言われています。
武光の功績は、その輝かしい戦績ばかりではありません。かつて博多で自らを保護してくれた聖福寺の元恢和尚を招いて正観寺を建立し、その下に鎌倉五山にならって、東福寺、西福寺、南福寺、北福寺、大琳寺を菊池五山として制定し、現在まで残る寺社の整備をはかりました。
また、国の重要無形民俗文化財に指定されている「菊池の松囃子」は、遠方からはるばる菊池に下向した懐良親王を慰めるために、武光が始めたことが起源とされており、670年経った今でも、絶えることなく受け継がれています。