ここ九州に遣わされ、菊池一族とともに死力を尽くして戦った皇子が、懐良(かねなが)親王。実は、当時の中国の王朝、明から正式に「日本国王良懐」として認められていたのです。
事の発端は、当時明を悩ませていた「倭寇」という日本人の海賊の取り締まりについてでした。15代武光の活躍で北朝方を一掃した結果、懐良親王は当時九州を統括する立場にありました。明の側からすると、倭寇の本拠地である北九州は懐良親王の管理下であり、親王が倭寇を使って明の船を襲わせているように見えたのでしょう。
倭寇の略奪を止めさせ、明に朝貢しないと日本を侵略する、という圧力的な態度に、当初懐良親王は激怒していたのですが、やり取りを重ねるうちに「明の後ろ盾」という魅力に注目し、朝貢貿易を行う約束をしました。
さて、後にこれに困ったのは、室町幕府の3代将軍足利義満。明に貿易を申し込んだものの、「日本国王良懐」の手下に過ぎない者が、正式に明と貿易はさせられない、と突っぱねられてしまったのです。実質的には日本の頂点に君臨していた義満ですが、明で国王と認められていたのは相変わらず懐良親王のまま。正式に「日本国王」と認めてもらえるまで、しばらくは懐良親王の名義で貿易をしていたのだと伝わっています。