薩摩の代表として行った長州征伐や薩長同盟などはとても有名ですが、実はその地位を得るまでの道のりは平坦なものではありませんでした。安政の大獄で尊皇派が次々と捕縛されていくなか、西郷は奄美大島での潜伏を命じられます。その時に使っていた名前こそ「菊池源吾」(吾が源、菊池にあり)だったのです。また西郷はこの奄美大島で2人の子どもを授かり、それぞれ菊次郎、菊草と名前に菊の字を入れています。
尊皇派の急先鋒だった西郷にとって、天皇家一筋に尽くした祖先の名を借りることは、逆風の中でも志を消すまいとする強い意志の表れだったのかもしれません。逆境の中でも、ぶれずにまっすぐ進み続けた祖先の背中を追って、西郷もまた、自らの志の中で生き抜いたのでした。