一方、北朝方は武光自ら渡河地点を偵察したことを知り、軍議を開きました。
原田・松浦・秋月・三原らの諸将は、音に聞こえた武光の勇猛果敢さを説き、現在の陣地付近は一面の平地で、武光が川を渡って攻撃してきたら到底守りきれないので、大原(おおはら)付近まで撤退することを進言しました。
頼尚の長男・少弐忠資(しょうにただすけ)や甥の頼泰(よりやす)は、菊池勢が渡河半渡りの戦法*を強く主張しましたが、頼尚は同じ北朝軍の大友氏時(おおともうじとき)と協議し、次の決定を下しました。
古飯(ふるえ)の大友氏時の軍は夕刻、山隈原(やまぐまばる)に退却すること。
用丸・上味坂の主力は大保原に退却し、一部を福童原(ふくどうばる)に残し敵の行動を監視すること。
この決定に少弐忠資は驚き、撤回するように強く求めましたが、頼尚は譲りません。既に主力は日暮れを待たずに退却を始め、各渡り場の監視部隊も続々と退却するありさまです。
先に武光の夜襲部隊が出した斥候により下西味坂・東味坂付近の敵は一兵残らず退却したことを知ると、武光は夜明けと共に北の方角を眺め、北朝軍が既に陣形を整え、北に通じる一本道を古飯沼付近で3箇所切った上で、用丸・味坂付近で宝満川(ほうまんがわ)の対岸に布陣しているのを確認しました。北朝軍は平地での不利な戦いを避け、沼や川を利用して高地に陣を取り、武光も容易に軍を動かせないまま、16日間もの間睨み合いが続くことになりました。
※渡河半渡りの戦法
味方の兵を隠してわざとおびき寄せ、敵の半分ほどが渡河した時に急に攻め、渡河中の兵も全滅させる戦法。