1334(建武元)年、「建武の新政」をしき、天皇中心の政治を始めた後醍醐天皇でしたが、公家を優遇する不公平な政治だったため、武士の間では不満が募っていきました。そんな折、倒幕の英雄・足利尊氏が、不満を持つ武士たちとともに後醍醐天皇に叛旗をひるがえして鎌倉に入ります。
後醍醐天皇はこれを怒って尊氏征伐を決定しました。天皇方を率いるのは新田義貞。そして武重も、この軍に参加して討伐に加わりました。
1335(建武2)年11月、両軍は箱根・竹ノ下で激突します。対するのは、足利尊氏の弟・直義の軍勢でした。戦局は足利軍の優勢。新田義貞は退却を決意します。そしてその時、殿(しんがり)を務めたのが、武重率いる菊池軍だったのです。
敵の追撃を阻止し、本体の退却を援護するのが目的であった殿は、限られた人数で敵の進撃を食い止めなければならない最も危険な任務であり、古来武芸・人格に優れた武将が務める大役とされてきました。
この大役に抜擢された菊池軍の兵力は、敵方三千人に対してわずか千人。この局面を打開するため、武重は自らの手勢に、周囲に自生していた竹を切らせ、先端に小刀を結わえさせて即席の槍を作らせました。
「いいか、引き付けるだけ引き付けろ。隙間を作らず、一斉に槍を立てるのだ。菊池勢の結束力を見せ付けてやろう!」
これが後に「菊池千本槍」と呼ばれるようになったものです。それまで矛や鉾と呼ばれる武器は使われていたものの、鎌倉時代末期から「槍」と呼ばれるようになった武器での集団戦法は、この時に始まったと伝わっています。南北朝期になって行われるようになった集団戦においてとても効果的な戦法で、「槍ぶすま」とも呼ばれます。
この戦法が功を奏し、圧倒的に不利な状況の中、武重軍は三千人の敵兵の撃退に成功しました。この「箱根・竹ノ下の戦い」自体は足利軍の勝利に終わりましたが、武重の活躍によって、大将新田義貞を無事に京都へ帰還させることが叶ったのです。
この戦いの後、菊池に帰った武重は、10代武房の代に京都から招いていた刀工集団延寿一族に、数多くの槍を作らせたと伝わっており、この時作られたものとされるものが菊池神社に納められています。(市指定文化財)延寿一族は名刀で有名な同田貫の祖先と言われています。
延寿の屋敷跡は、現在八坂神社となって、地域に護られています。
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