時は都が戦乱に明け暮れた室町中期の1481(文明13)年。九州の片田舎である菊池で、1日に1万句を詠むという大きな連歌の会が催されました。
主催者は21代重朝。家臣や僧などの館20ヶ所の会場で、「月」をテーマにそれぞれの会場で500句ずつを詠んだのです。
「学問は僧がするもの」という考え方が一般的だったこの時代、これほど多くの人々が連歌の会に参加できるという、菊池の人々の教養の高さを如実に示す結果になりました。
この21代重朝と彼の父20代為邦と言えば一族きっての学者肌当主で、京都を代表するような僧たちも、菊池から伝えられた為邦・重朝の詩文をこぞって賞賛したのだとか。
「肥の国たるや、文あり武あり、民は礼節を知る、実に邦君の仁化の及ぶ所なり」
肥後(熊本)というところは、文武両面に優れ、民は礼節をわきまえている。国のトップが民の教化に努めているからだろう、という言葉も残され、菊池の文教のレベルが、中央にも引けを取らないものであったことを示しています。