1359(正平14)年、九州を二分する北朝勢と南朝勢の衝突が勃発します。日本三大合戦に数えられるこの戦は、筑後川を南北に挟んで対峙した前哨戦に始まり、後の大保原での決戦では、十万ともされる将兵が入り乱れて戦うという、史上稀な戦史として、後世に語り継がれています。
武光は7月15日に高良山(こうらさん)に到着し、少弐軍が味坂(あじさか)付近に布陣しているのを見て、自軍を水縄(みのう)山脈付近に留め、攻撃計画を立てました。
16日の夕刻までに詳細な情報を集めた武光は、17日に戦いを挑み、少弐頼尚(しょうによりひさ)率いる北朝軍が渡河攻撃してくるのを待ちますが、警戒して出てきません。
翌18日、武光は次の計画を立てました。
決死隊5,000人が、19日22時頃に古北付近を渡河し、翌日朝4時、味坂の敵に対し夜襲する。
各軍は暗夜を利用し、国府の親王軍は下弓削(しもゆげ)付近に、残りの軍は神代(くましろ)付近に集合し、決死隊が夜襲するのと同時に筑後川を渡河し、西味坂の敵に向かって攻撃する。
先に偵察して予想したとおり、5000人の決死隊は敵の抵抗を受けることなく、予定通り味坂に向かって進みました。