1333(元弘3)年3月13日。
現在の福岡市博多区に、菊池12代武時の姿がありました。その目的は、九州における幕府の本拠地「鎮西探題」の打倒――。
時は鎌倉時代の末期。北条氏による腐敗政治に御家人たちは不満を募らせていました。天皇による政治の復活を目指した後醍醐天皇はこれをチャンスととらえ、全国の御家人に、幕府打倒の挙兵を促します。
これを受けて武時は、九州の有力御家人少弐氏・大友氏に呼びかけたうえで、阿蘇氏と共に挙兵を決意したのです。
ところが討入の当日。土壇場になって少弐氏・大友氏は共に幕府方に寝返り、武時は絶体絶命のピンチに立たされます。
圧倒的な兵力差で、背後に襲い来る少弐・大友勢。一旦退却し、袖ヶ浦で最後の突撃への体勢を整えた武時は、一つの決断をしました。
嫡男武重を呼び出し、菊池へ帰るよう促したのです。
「私も共に戦います!父上一人、死なせはしません!!」
行けば必ず死ぬ。痛いほどに戦況を把握して、それでも行くと言う父を、置いて帰りなど出来ない。
武重は懸命に食い下がります。
「駄目だ。お前は、帰れ」
それでも武時の決意は固く、静かな厳命が下されたのでした。
「お前が死んだら、菊池はどうなる。天下のためだ。武重、後は頼む!」
そして武時は自らの衣服の袖を切り、故郷で待つ妻へあて、一首の歌を書き付けます。
――故郷にこよいばかりの命とも知らでや人のわれを待つらん
(遠い故郷に、今夜までの命とも知らないで、家族が私を待っているだろう)――
託された歌に父の固い志を想い、涙で頬を濡らしながらも、武重は深く、父の言葉を受け入れました。そして父から預かった歌を握り締め、阿蘇惟直と共に博多を後にしたのです。
これが、「袖ヶ浦の別れ」として後の世まで伝わる場面です。
この後武時は、弟覚勝、次男頼隆ら70名あまりを引き連れて、鎮西探題へと攻め入りましたが、全員が討たれました。
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