菊池一族 the Kikuchi Clan

05多々良浜の戦い

2016年09月09日

「箱根・竹ノ下の戦い」で勝利を収めた足利軍は、その勢いで京都へと攻め上りますが、天皇方の北畠顕家らの活躍によって敗走します。尊氏は敗因を、天皇に叛旗をひるがえし「朝敵」になってしまったからだと考えました。そして、自分の正当性を主張するためにもう一つの王朝を立てることを思いつきます。つまり、帝vs帝という図式を作り出したのです。

これが、後に南北朝と呼ばれる時代の始まりでした。

後醍醐天皇のライバルの血筋から光厳上皇を擁立し、天皇方と戦う大義名分を得た尊氏は更に西へと向かい、舞台は九州へと場所を移します。尊氏は九州の武士達に、自分の味方につくように呼びかけました。ここでも後醍醐天皇に不満を募らせていた武士は多く、大宰府の少弐貞経もその例に漏れませんでした。

九州で留守を預かっていたのは、武重の弟武敏でした。武敏にとっては、少弐貞経は博多合戦で父を裏切った仇にあたります。数度の合戦の後、ついに武敏は内部の寝返りを誘って、少弐貞経を自害に追い込みました。父武時の討死から、3年後のことでした。

そして1336(建武3)年3月2日。

武敏率いる菊池・阿蘇を中心とした天皇方と、尊氏率いる武家方が、博多の多々良浜(現在の福岡市東区)で衝突します。

「多々良浜の戦い」です。

天皇方の軍勢を見た尊氏が、「いっそ切腹しよう」と言ったと伝わるほど、開戦の段階の兵力差は圧倒的に天皇方が有利な状況でした。

ところが、この時運が味方をしたのは、尊氏率いる武家方の方でした。

高地に陣を張る足利勢。ちょうどこの頃から次第に風が強くなり、高地から吹き降ろす風が浜の砂塵を巻き上げて菊池勢へと叩きつけたのです。勢いづいた足利勢が風上からしきりに矢を放ったため、菊池勢は前進できずに退きます。

その時、菊池勢の先頭に駆け出す騎影がありました。

大将、武敏でした。

「怯むな!義は我らにあり!!帝に弓引く逆賊など、我らの手で葬るのだ!」

劣勢を恐れぬ武敏の姿に勇気を与えられ、一時は菊池勢も盛り返し、尊氏の足元にまで迫る勢いを見せました。

しかし、肥前勢の寝返りや連戦の疲れなどから再び勢いは逆転し、この戦は大敗という結果に終わってしまいました。

ところで、この戦いにまつわる、ある刀剣の伝説が残っています。

名刀、蛍丸。

多々良浜の戦いで菊池とともに戦い、重傷を負った阿蘇大宮司惟直の太刀です。

弟惟成の肩に支えられて後退しながら、追いすがる敵を打ち払い続けた惟直。その時この刀は多くの刃こぼれで鋸のようになってしまったのですが、その夜惟直は夢の中で、こぼれた刃の欠片が無数の蛍になり、もとの刃に宿ってもとの美しい刀に戻る様を見ました。

そして目を覚ましてみると、本当に刃こぼれが直っていたというのです。

一時は国宝にも指定されていた蛍丸。太平洋戦争末期の混乱の中で行方不明になってしまいましたが、行方不明になった現在も、国の重要文化財として指定されています。

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