多々良浜で菊池・阿蘇の軍勢を破った尊氏は、4月7,000艘の大船団を率いて現在の岡山県の鞆津(とものつ)に着きました。鞆津からは軍勢を二つに分け、陸路と海路の双方から京都を目指します。これを迎え討とうとした南朝軍は、新田義貞を大将に京都から兵庫へと進みましたが、九州・中国・四国の武士達を集結させた足利軍に対抗できず、総退却となりました。
そして舞台は、兵庫の湊川へと場所を移します。後醍醐天皇に取り立てられ、新田義貞とともに双璧を成した天皇方の主翼、楠木正成(くすのきまさしげ)最期の戦いです。数万の敵勢を前に、数百の軍で立ち向かった彼は、この戦いの中で自害を果たし、現在はこの地に建てられた湊川神社に祀られています。
ところで、この楠木正成の墓碑には、一人の菊池武者の名前が刻まれています。
菊池武吉。
13代武重の弟に当たります。楠木一族の17名と共に、ここに彼の名前が刻まれているのには、こんな逸話があります。
武吉は倒幕後の論功行賞のために上洛した兄武重に随行して行動を共にしており、湊川の戦いにおいても戦線に参加していました。
圧倒的な兵力差のもとで、総退却に追い込まれた天皇方。武重は正成の身を案じ、状況把握のために武吉を正成のもとに遣わせたのでした。菊池にとって正成は、倒幕後の論功行賞の際に武時の忠義を天皇に伝えてくれた恩人。このピンチにおいて放ってはおけなかったのでしょう。
そして武吉は、まさに追い詰められた正成とその弟の正季が、自害しようとしているその場に行き合わせたのでした。
その場面のことは、太平記にも記載され、現在まで伝わっています。
「武吉どの、よく駆けつけてくださった。しかし、もはやこれまでだ。潔くここで果てようと思う。兄上に、我らの最期をお伝えくだされ」
「いいえ……!いいえ、楠木さま!!このような場に居合わせて、どうしておめおめと帰れましょうか。大恩ある楠木さまのお供が出来るのならば、本望。……どうか、ご一緒させてください!」
こうして武吉は、めぐり合わせの運命の中で、楠木兄弟と共に自刃しました。
この時に彼が見せた誠意は後の世までも語り継がれ、水戸黄門でお馴染みの水戸光圀が350年の時を経て楠木正成の墓を立てた際、武吉の名前もまた、正成やその一族と共に刻まれたのです。
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