湊川の戦いに勝利した武家方は、意気揚々と京都に攻め込みました。後醍醐天皇は天皇の証とも呼べる「三種の神器」を手に比叡山へ立て籠もりますが、尊氏の戦略の前に対抗しきれず、遂に京都に帰る決断をします。
その結果、武重も武家方の手によって京都に幽閉されてしまうのですが、そのまま囚われの身に甘んじている武重ではありませんでした。太平記によると、10日余り経ち、番兵の目が緩んだところを逃さず、自力で脱出を果たしたというのです。
また後醍醐天皇の方も、京都に帰る決断をした時に武家方と約束した条件が満たされないとして京都から吉野へと脱出を果たしました。こうして朝廷は、南の吉野(天皇方)、北の京都(武家方)の二つに分裂し、後の世に言う「南北朝時代」が始まったのです。
さて、脱出を果たした武重は、1336(延元元)年冬、ついに菊池に帰還します。
留守中菊池で奮闘していた武敏らと合流し、1337(延元2)年、寺小野で旗上げをしました。
これに呼応するように南朝方の武士が九州の各地で兵を挙げたため、北朝方の九州探題、一色範氏も慌てて自ら指揮を執り、武重を攻めました。この後九州においても、しばらく南朝方北朝方それぞれに、一進一退の攻防が続くことになるのです。
この事態を重く見た足利尊氏は4月、武重に書状を送って、足利方に従うように勧誘しました。
もちろん、そんな勧誘に頷く武重ではありません。きっぱりとこれを拒絶する返書をしたためたと伝わっています。
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朝恩によってその栄光に浴した立場でありながら、帝に刃を向けるとは、大逆無道、獣にすら劣る。帝の臣下として戦い続けた我らが、獣ごときの配下になど、どうして下ることが出来よう。
貴様らは獣として現世を生き、死して冥府を彷徨い続ける宿命を自ら選んだのだ。哀れなものよ。
さあ、来るがいい、尊氏。兵を率いて菊池を攻めよ!私が邪魔なら、姑息な真似をせずこの首を落として見せればいい。たとえ勢力で貴様に劣るといえども、先祖の名を汚してまで売り渡せるような安い誇りは持ち合わせてはおらぬ!
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