新田義貞、楠木正成を失い、南朝方を取り巻く状況は大変厳しいものでした。事態は惣領武重本人にさえ、敵方の総大将、足利尊氏から寝返りの誘いが来るほどのものです。
断固としてこれを撥ね付けた一方、武重は一家団結の必要性を痛感するのです。
そこで武重は、一族を集め、日本最初の「血判書」という形で、ある誓いを立てました。
「寄合衆内談の事」(よりあひしゅなひたんの事/よりあいしゅうないだんのこと)。
後に「菊池家憲」と呼ばれることになる、一家の掟です。
三条からなるこの掟は、当主である武重と、庶子一族の任務と権限を定め、一族代表者の議会とも言える「内談衆」の会議のあり方を示しています。
第一条は、天下を左右するような大事については、内談衆の議決があったとしても、最後の決断は武重が行う、と動乱の世における当主の権限を一族にはっきりと示しています。
一方で第二条では、国の内政についてはたとえ当主が優れた意見を出したとしても内談衆の意見が一致しなければその案は採用しなくてもよい、という内談衆の権限を認める内容です。
そして第三条では、一族内部での係争ごとを禁じ、鳳来山聖護寺の教えの下、家門の繁栄が仏教の正当な教えとともに永久に続くことを願っています。
このように武重は、虚言と反逆に満ちた南北朝の世で、菊池一族のあり方を示して一族の団結をはかり、一門の繁栄を願いました。
それから500年以上の時を経て、この起請文は再び光を浴びることになります。
明治天皇が制定した「五箇条のご誓文」。この中の一条「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という項目は、この菊池家憲の精神が、維新十傑の一人、熊本出身の横井小楠から、坂本竜馬や五箇条のご誓文の起草に当った由利公正に伝わり、参考にされたと言われています。
この菊池家憲は、「紙本墨書菊池神社文書」として、ほかの40通と一緒に菊池神社に保管されています。
寄合衆内談の事
一、天下の御大事は、内談の議定ありと言うとも落去の段は武重が所存に落とし付くべし。
一、国務の政道は内談の儀を尚すべし。武重すぐれたる議を出すと言うとも、管領以下の内談衆一統せずば、武重が議を捨てらるべし。
一、内談衆一統して菊池の郡に於いて訴え事を禁制し、山を尚して五常の義を磨し、家門正法と共に竜華の暁に及ばん事を念願すべし。
謹んで八幡大菩薩の明照を仰ぎ奉る。
藤原武重
延元三年七月二十五日
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