武重の遺言により次の当主に選ばれた14代武士(たけひと)は、武時の十一男。武重同様正妻の子として生まれたのですが、既に一門の中でも実力者として活躍してきた兄たちを差し置いての家督継承となりました。
しかしこの時期と言えば、正式に菊池氏が肥後守に任ぜられ、九州南朝方における立場も大躍進を遂げた一方で、全国的に見れば征夷大将軍になった足利尊氏に対抗する南朝勢は、新田義貞の敗死以来すっかり衰退していました。この難局を乗り越えるために、武重は菊池家憲を制定し、一族の団結をはかったのですが、その中心人物を欠いて、大きな岐路に立たされた一族の未来が、16歳の武士の肩に重くのしかかってきました。
武士は武重の遺志を忠実に守り、一門の結束をさらに高めるべく起請文を出していますが、それは当主としての立場をかなり控えめなものに限定しており、本人の意思なのかそうせざるを得なかったためかは不明ですが、強いリーダーシップを発揮できていたとはとても言えないような状況でした。
そのような中、九州北部に勢力を得た探題一色範氏は次第に肥後を包囲していきます。この緊迫した状況下で、武士が心のよりどころにしていた聖護寺の大智禅師にあてた手紙が残っています。
「私は元来愚か者で、亡き兄の遺志を継ぐ器も持ち合わせてはいません。帝のため、菊池家のために尽くすことの出来る、当主として相応しい人物に選んで、後を継がせて頂きたいのです」
輝かしい兄の偉業と刻々と悪化していく戦況の狭間で、懸命に兄の遺命を守ろうと思い悩む、若き武士の悲鳴にも近い思いが見えるようです。
さらに菊池を取り巻く状況は深刻さを増し、この手紙の翌年、ついに菊池本城が、北朝方の合志幸隆の手に落ちてしまいまいた。自らの実力の限界を突きつけられた武士は、失意のなかでいよいよ隠退を決意します。
帝のために。菊池のために。
冷静に自らの器を見つめ、身を引くことで戦局の挽回を図ろうとした武士は、世俗を離れて僧衣をまとい、独りかつて師の大智禅師が立てた加賀の祇陀寺を目指して旅立ちました。
諸国を巡り、墨染めの僧衣をまとった武士が再び菊池に訪れたのは、1376(天授7)年。55歳になっていました。
武士が訪れたのは、寺小野の大円寺。かつて、兄武重が京から帰国した際、一門の旗揚げをした地です。それから40年近くが経ち、武重も、武敏も、武光も亡くなった菊池で、桜の花ばかりが、変わることなく爛漫に咲き乱れていました。
――袖ふれし花も昔を忘れずばわが墨染をあわれとは見よ
(かつて肥後守として袖で触れた花たちよ、昔を忘れないでいてくれるのならば、どうか墨染の僧衣をまとった私の姿を憐れんでくれるだろうか)――
傷心の武士が仰いだ墨染の桜は、春になると今でもその子孫木が、寺小野の大円寺跡で美しい花を咲かせています。